1952年型フォルクスワーゲン ビートル VOLKSWAGEN BEETLE

1952 VOLKSWAGEN BEETLE フォルクスワーゲン ビートル

文:伊東和彦/Mobi-curators Labo. Words:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.)/写真:芳賀元昌、株式会社ヤナセ、フォルクスワーゲンアーカイブス Photography:Gensho HAGA、YANASE & CO.LTD.、Volkswagen Archives/取材協力:ヤナセヴィークルワールド株式会社 https://www.yanase.co.jp/vw/ フォルクスワーゲン芝浦(tel:03-5484-7111)/撮影協力:東京国立近代美術館工芸館(tel:03-5777-8600)
すべてはこの一台から始まった。
この濃紺に塗られた1952年製フォルクスワーゲンには、日本とフォルクスワーゲンを結び付けるという重要なヒストリーが刻まれている。

ノルトホフ社長の置土産

 日本におけるフォルクスワーゲンの歴史は、ここにある濃紺の1台から始まった。1952年11月、販売促進活動のために、フォルクスワーゲンのハインリッヒ・ノルトホフ社長が来日、サンプルとして4台のフォルクスワーゲンを携えてきた。
その内の1台がこの濃紺のタイプ1(後にビートルの愛称で呼ばれる)である。

 フォルクスワーゲン・タイプ1がフェルディナント・ポルシェ博士の設計であることはよく知られているが、ポルシェ博士を生みの親だとすれば、ノルトホフ社長は育ての親である。ノルトホフの存在がなければビートルが世界中であれほど成功(累計生産2150万台)することはなく、また、日本にビートル神話が根付くことはなかったかもしれない。

空冷水平対向4気筒エンジンは1131㏄(75×64㎜)から25ps/3300rpmを発揮する。
1954年には排気量を1192㏄(77×64㎜)に拡大して、最高出力が30psに向上、最高速度が105から112㎞/hになった。

 よく知られているように、フォルクスワーゲンが誕生した切っ掛けは、第二次大戦前の1933年に当時のドイツ帝国政権が立ち上げた"国民車構想"にあった。翌34年にフェルディナント・ポルシェ博士が率いる設計事務所に政府から設計依頼があり、35年にはプロトタイプ1号車が完成、36年には走行テストを終えた。1937年には国営企業として「ドイツ国民車準備有限会社」が設立され、翌38年には、現ウォルフスブルグ市のある荒野に当時としては世界で最も進んだ自動車工場の建設が始まった。だが、第二次大戦が始まると、完成した施設は軍需工場に転換され、国民のための乗用車が生産されることはなかった。

 1945年に終戦を迎えると、フォルクスワーゲン工場は連合国軍の管理下に置かれることになった。ウォルフスブルグ工場を統治したイギリス軍は、欧州での絶対的な車不足を解消するためフォルクスワーゲンの生産再開を決定し、2万台の生産を命じた。こうして、戦前にはほとんど生産されることのなかったフォルクスワーゲン・タイプ1の本格的な生産が始まった。

 政権の後ろ盾を失った会社は改組され、独立した起業として再出発を果たすことになった。
新会社の初代社長として招聘されたのが、オペル社で生産技術を専門とする役員で、同社の戦後復興に邁進していたハインリッヒ・ノルトホフであった。ノルトホフはオペルでの仕事に充実感を覚えていたが、英国占領軍に懇願(時には脅しまがいのこともあったという)され、「英国軍が仕事に干渉しないこと、全権を任せること」を条件として、1948年1月1日にフォルクスワーゲン社の社長に就任した。

 ノルトホフは自ら陣頭に立ち、ネジ1本までメカニズムを点検吟味するほどの詳細な製品検討や、様々な過酷な条件を課した走行テストを実施。
欠点や未熟な箇所を洗い出し、商品として熟成させた。この過程でノルトホフは、フォルクスワーゲンはオペルなど既存の小型大衆車とは異質ではあるが、小型大衆車としての基本設計に優れ個性的で機能的な車であることを確信。個性と品質が大きな武器になるとして、それを販売戦略の背骨とした。

実用本意のシンプルなダッシュパネルだが、無味乾燥な印象は受けない。ハンドル仕様の生産を考慮して、パネルを左右対称の造形にしている。

リアウインドウは2分割式の、いわゆる"スプリットウインドウ"型だ。ヤナセが輸入するのは、1953年に1枚のオーバルウインドウに変更されてからのモデルになる。

手触りの感触がいいファブリック張りのシートは、硬めだが掛け心地はとてもいい。

 商品性に自信を持ったノルトホフ社長は、輸出によって会社の財政基盤を強固なものしようと考えた。それは同時に東西に分断され、灰燼の中から蘇らなければならなかった西ドイツの戦後復興にとって大きな力にもなることだった。ノルトホフ社長がまず目を向けたのは、旺盛な自動車需要を持つアメリカ市場だった。1949年1月にはアメリカで初めての正規輸入を開始すると、55年には現地法人を設立し、さらなる拡販に乗り出した。

 まったく知名度がなく、一般的な自動車とはスタイルやメカニズムがまったく異なり、米国車より遙かに小さなフォルクスワーゲンだったが、自動車の広告宣伝としては最も成功した活動といわれる巧みな広告展開によって、優れた品質をアメリカ市場に浸透させ、やがて輸入車のベストセラーへと登りつめた。小型車市場の拡大を無視できなくなったアメリカの自動車会社は、競って小型車を市場に投入した。現在、アメリカには大きな小型車市場が存在するが、その発端はフォルクスワーゲン・ビートルなのである。

1952年、日本の車社会

 ノルトホフ社長が来日した1952年当時、日本が将来、自動車大国になると彼が考えていたのかどうかは知る由もない。だが、ドイツと同じく戦後復興のために動き出していた、日本という国を自分の目で見ておきたいと考えたことは想像できる。

 ノルトホフ社長が携えてきた4台(スタンダード、デラックス、マイクロバス、コンビ)は各輸入車販売店を回ってプロモーションを行ったが、その中にGMの代理店であった梁瀬自動車(当時)もあり、同社の芝浦工場(現在の株式会社ヤナセ本社)で詳細に検討が行われた。ノルトホフ社長のプロモーション活動には10数社が輸入販売権の取得を申し出、その中からヤナセが選ばれた。

 サンプルカーの4台はそのまま日本に留まり、1953年1月16と17日に、代理店に決まったヤナセが東京・日本橋で開催した展示会には、約6000名の来場者があり、380件もの注文があったという。1953年にはタイプ1が105台、タイプ2(マイクロバス/コンビ)が3台の合計108台が輸入されている。

 1953(昭和28)年ごろの日本では、自家用車を持つことは庶民にとって遙か遠くの夢であり、乗用車との接点はタクシー程度であった。この時期、日本では自動車の輸入は厳しく制限されていたが、フォルクスワーゲンは正式輸入以前にも大使館や駐留軍人によって少数が上陸していた。それらに路上で遭遇する機会は希だったが、自動車に関心がある人のなかでは優れた性能や品質が話題になっており、53年1月の来場者には、ひと目でも本物を見たいという、自動車技術者の姿もあったことだろう。余談ながら、1949年ごろにはタイプ1が個人によって日本に持ち込まれており、これをヤナセが調査していたとの証言もある。

  • 計器類は120km/hまで刻まれた速度計とその盤面内に収められた距離計のみだ。14861kmを示しているが、果たして「何周」回っているのだろうか。

  • スピーカーと一体のパネルに収められたAMラジオ。

  • Bピラーには腕木式方向指示器が備わる。

 1953(昭和28)年5月には上野公園で「自動車産業展示会」が開かれ、翌54年には日本で初めての本格的自動車ショーである「第1回全日本自動車ショウ」が開催され、10日間の会期中に54万7000人が入場、自動車への期待の高さを示した。また、1952~53年には、日本の自動車会社が車不足解消と新技術を吸収するため海外のメーカーと技術提携し、ノックダウン生産に乗り出した。日野ヂーゼル工業(現:日野自動車工業)、日産自動車、いすゞ自動車の3社から、それぞれ日野ルノー、日産オースチン、いすゞヒルマンが誕生した。この3台の中で最も安価だったのは、日野ルノー・スタンダードの73万円で、日産オースチン(A40サマーセットは111万4000円、いすゞヒルマンは70~92万円であった。トヨタは独自開発の道を選び、1955(昭和30)年にトヨペット・クラウン(RS型)を完成させ、99万5000円で発売した。

1953年のヤナセ取扱い開始時の様子。入荷したフォルクスワーゲン・タイプ1は待ちかねた顧客に引き渡されていった。

同じく1953年に撮影された宣伝用写真。この時期は、現在とはナンバープレートの形状と文字配列が異なっていた。三角窓とシンクロメッシュギアボックスを備えた輸出用モデルだ。

ウォルフスブルクの工場で出荷を待つタイプ1(VW Archives)。

 これら日本車に対して、フォルクスワーゲン・ビートルはスタンダードが74万円、デラックスが80万円で、同年に105台が販売されている。だが、1953年当時の大卒初任給が9200円ほど、煙草が30円、新聞月額購読料が280円という時代であった。庶民にとって、自家用車は非現実的な遙か遠い存在であり、車好きにとっては、これらのタクシーに乗ることが車と触れる唯一の機会だった。

1952年型フォルクスワーゲン

 ノルトホフ社長が携えてきた4台のサンプルカーの中で、現存しているのは濃紺に塗られたタイプ1(ビートル)のスタンダード・モデルのみである。サンプルカーとしての役目を終えてから、ナンバーを取得して販売されたが、その後ヤナセに戻り、大切に保管されていた。

 ヤナセ創立100周年を迎えるにあたって、このタイプ1を輸入第一号車と位置付け、レストアを実施してショールームなどで公開している。

 ボディのペイントはやり直し、タイヤを交換してしるものの、車内やエンジンルームはクリーニングのみを施したくらいだというから、よほど手厚い保護を受けてきたのだろう。1952年から続くフォルクスワーゲンと日本との強い結び付きを示す貴重な存在である。

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