ヤナセクイズ
100年を超える歴史から出題。あなたはいくつ分かりますか?
ヤナセは1915年の創業以来、100年以上にわたり日本の自動車文化とともに歩み続けてきました。その長い歴史の中には、さまざまな出来事がありました。今回はヤナセの歴史からクイズを出題。あなたはいくつ分かりますか?
- 2022年08月25日
- 文:高橋 満

第1問
1915年に創業したヤナセの前身である梁瀬商会が初めて取り扱った乗用車ブランドは?
①メルセデス・ベンツ
②BMW
③ビュイック

正解
③ビュイック
自動車の国内の保有台数が1,000台程度だった1915年にビュイックとキャデラックの一手販売権を取得し、梁瀬商会を設立。日比谷公園前にあった約270坪の店舗と工場設備で営業を開始しました。
第2問
創業以来、ヤナセが取り扱ってきた自動車はすべて輸入車である。
①YES
②NO
正解
②NO
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、戦争状態が終結。以降は外国の自動車輸入のための外貨割当制度がスタートしましたが、貿易自由化までにはまだ多くの歳月を必要でした。
ヤナセは販売に制限がない国産車に注目し、1957年からプリンス自動車が製造した「プリンス・スカイライン」の販売を開始しました。
1981年には、いすゞ自動車が製造した「ピアッツァ」の黒いボディカラーのヤナセ限定モデル「ピアッツァ・ネロ」を販売するなど、日本車を取り扱っていたことがあります。



第3問
ヤナセの現在のコーポレートスローガンは「クルマはつくらない。クルマのある人生をつくっている。」ですが、過去にクルマをつくったことがある。
①YES
②NO

正解
①YES
現在の国内自動車メーカーに先駆けて純国産自動車を試作。1922年8月に自社製自動車である「ヤナセ号」を完成させました。
ヤナセ号は当時の外国車の真似をせずに単独設計にこだわったため、製造コストが高くなってしまい、当初は10台を製造する計画が、わずか5台の製造となりました。
第4問
ヤナセが販売した車両のリアウインドウ(もしくはボディ)に貼っているブルー&イエローのYANASEステッカー。これを貼る目的は?
①お客さまにステータスを感じていただくため
②ヤナセのお客さまであると路上でもヤナセ社員がすぐに分かるようにするため
③「ヤナセ」をPRするため

正解
②ヤナセのお客さまであると路上でもヤナセ社員がすぐに分かるようにするため
ブルー&イエローのYANASEステッカーは、1972年から採用しています。
このステッカーには、お客さまの車がトラブルに遭った際に通りかかったヤナセの社員が、お声掛けできるようにしたいという梁瀬次郎社長(当時)の思いが込められています。
第5問
次のうち、ヤナセが初めて輸入したメルセデス・ベンツのモデルは?
①540K
②170V
③260D

正解
②170V
戦前からメルセデス・ベンツの指定工場として高い評価を得ていたこともあり、1952年にダイムラー・ベンツ社から販売権を獲得。「170V」(写真)のほか、170S、220、300を輸入しました。そして1954年にはダイムラー・ベンツ社全製品の日本総代理権を獲得しました。
第6問
かつてヤナセは非常にユニークな乗り物を販売したことがあります。それは次のうちどれ?
①サファリパークのバス
②クレーン車
③水陸両用車

正解
③水陸両用車
アンフィカーは、1961年から1968年まで西ドイツで製造された2ドア4人乗りオープンボディのレジャー用水陸両用車です。陸上はリアエンジンリアドライブ方式、水上はスクリューを駆動。5台を販売しました。
第7問
次のうち、ヤナセが日本の家庭に普及するきっかけをつくった製品は?
①石油ストーブ
②ブラウン管テレビ
③扇風機

正解
①石油ストーブ
ヤナセはこれまで、自動車以外の製品も数多く販売してきました。1957年にはアラジン社(イギリス)の前身であるインバー・リサーチ社との間で日本総代理店契約を締結。「ブルーフレーム」というオイルヒーターの販売を開始しました。
当時の日本は火鉢やコタツに代わり、ガス・電気ストーブが普及。石油ストーブも姿を見せ始めていましたが、国産製は扱いが難しく、においが強く、安全性も低いものでした。一方、ブルーフレームは点火すると青くて透明な炎が音もなく静かに燃え、石油のにおいも煙もまったくありませんでした。
ブルーフレームは販売を開始したところ、あっという間に売り切れて大ヒット商品となり、日本に石油ストーブが広く普及するきっかけになりました。
第8問
ヤナセは今では当たり前になっている安全装備の草創期に関わっていました。それは何?
①シートベルト
②エアバッグ
③ヘッドレスト
正解
②エアバッグ
クルマのエアバッグの発明者である小堀保三郎氏。1965年、小堀氏からエアバッグの説明を聞いた梁瀬次郎社長(当時)はその有用性を確信し、自ら実験の模様を記録した16ミリの映画フィルムを持ってダイムラー・ベンツ社を訪問、さらにGM、フォード、クライスラーにも社員を派遣しました。
各社とも強い関心を示したものの契約締結には至りませんでしたが、エアバッグは1980年にメルセデス・ベンツのSクラスに装備されたのを皮切りに世界各国で実用化されました。

